そのうちの一つが『高野山時報』
真言各派の動きはもちろんですが、
ページを見開いたところにある『読み物』は
毎回、読み応えがあります。
いつの日か、この新聞に@しんえいも写真入で載ってみたいですね〜
6/21発行、高野山時報 第3138号に掲載された
松長管長猊下の『「癒し」について考える』は、読んでいて、、、なんか、、とっても嬉しかったですね〜
実は、@しんえいも「千の風・・・」に違和感がありました。
でも意気地がないので、あまり大きな声で言ったことはなかったのですが、
さすが松長先生、そうそう、そのとおり!
謹んで全文引用させていただきます。
長いですが、是非ともお読みください。
「癒し」について考える
総本山金剛峯寺座主 高野山真言宗管長 松長有慶
「癒し」という言葉が最近では流行語になっています。もともと英語の「ヒール」(癒す)という動詞からきた言葉で、健康を意味する「ヘルス」と同根とされます。「ヒール」には名詞の意味がありませんから、日本語で名詞の「癒し」は英語の「ヒーリング」に当たるとされていますが、私の愛用している、ということはかなり古びた英和辞典には、その言葉が見当たりません。最近作られた言葉なのでしょう。
私が気がかりなのは、癒しという日本語が、本来の癒すという意味よりも、癒されるという受身に使われることが多いということです。日本人全体が癒されたい症候群にかかっているとしか思えません。よほど日常生活の上で、孤独で、傷つきやすく、か弱いおひとばかりが日本に住んでいるのでしょう。
日常生活の中で、他人に自分の心を傷つけられるのはいやだ、他の人もいやであろうから、なるべく他人の内部に係わり合いを持ちたくない。他人のことは出来るだけそっと触れずにいて、それにもかかわらず自分の心の痛みや、淋しさは誰かに慰められたい、癒されたいと思う。現代人の身勝手さ、エゴイズムが「癒し」の受身形の多用の中に現れているように、私は思えます。
私たちが心に深い傷を負った時、どうしようもない虚しさ、孤独感、やりきれなさにいたたまれなくなった時、愛する人がいなくなった喪失感、これらに苦しめられる時、誰かに慰められたい、癒されたいと切実に望む。それは無理もないことです。
今までは、このように心に大きな空洞が出来た時、家族が支え。近隣の人や友人がなにがしかの手を添えてくれたことも少なくなかったでしょう。だが、家族形態が核家族化し、地域社会が崩壊し、友人が他人の心にずかずか入り込むことを差し控える風潮では、心の傷や喪失感を修復するには、時が解決してくれるのを待つしかないのかも知れません。
一昨年から昨年にかけて大ヒットした歌に、「千の風になって」があります。ご承知のように、亡くなった方はお墓なんかにはいません。千の風になって、鳥になって、星になって、いつもあなたを慰めますといった趣旨の歌詞です。
近親者や親友を失って、その喪失感にいたたまれなくなって涙を流す時、この歌詞のような状態がいつまでも続き、残された自分の周りに、亡くなった方がいつも一緒にいて欲しいという願望を抱くということは、現代の日本人の感覚では、それほど異常なことではなくなりました。
多くの人がこの歌詞や曲に酔いしれ、CDが爆発的に売れたという報道は多分事実です。けれどもごく少数の人が、この歌詞に違和感を抱いたことも間違えありません。もともとタイトルもない英語の詩に日本語訳と曲がつけられたものといわれます。日本人の感性に添わぬところがあって当然のことです。
少なくとも今から20〜30年前であれば、こんな曲はヒットしなかったと思います。けれども現代の日本人の間で、この歌詞がこれほどもてはやされるのは、日本人のものの考え方に明らかに変化が生じたからだといえるでしょう。
私のような古い感覚をもった日本人が、「千の風になって」の歌詞に違和感を持つ一つの原因は、亡くなった人まで利用して、自分の淋しさを癒されたいと思う現代人の身勝手さです。私たちはお弔いに参列して、「安らかにお眠りください」とか「御冥福をお祈りいたします」と合掌し、御魂安かれと祈ります。
亡くなった方がいつまでも眠らず、自分の周辺をウロチョロ飛び回って、自分の悲しみを癒して下さいとは、祈らなかったはずです。新聞の川柳欄に、「千の風 始終まとわりつかれても」という皮肉たっぷりの句を見て、日本人の古い感覚がまだ健全なことを知り、安心したことを覚えています。
古代の日本人にとって、死は忌むべきものでした。『記紀』の神話の中には、死者によってもたらされる穢れが、現世に持ち込まれるのを避けて、死者を放置した話がいくつも出てきます。このような死者に対する観点が大きく変化したのは、日本に仏教が移植されてからだと思われます。大乗仏教では、あらゆる人には、仏になる資質があると考えます。だから亡き人を野辺に見送った後、生者が何らかの善根を積むことによって、その功徳を死者に廻向され、仏となり、安楽な生涯を送ると考えられました。弘法大師の御著作を集成した『性霊集』の中には、このような趣旨の追悼文が数多く見出されます。
死を忌むべきものと考える日本古来の考えは、仏教によって一変しました。死者は穢れたものではなく、その本来の仏の姿に気づかせる、つまり成仏させることによって、安楽な後世を保証することが、お坊さんの役割となりました。葬儀とは死者の霊を迷わせることなく、仏にして安定させる儀式であるはずです。いつまでも生者の周辺を飛び回るのは、亡霊として避けられました。あるいは何か恨みを抱いて死んだ人は、怨霊となって、生者に祟りをもたらした事例は平安時代を通じて、いくつも報告されています。
もともと忌むべきものとして避けられた亡霊を、いつまでも生者の周辺に飛び回らせて、生者がそれによって慰められることを期待する風潮が望ましいとされる現代の風潮には、いくつかの原因があるでしょうが、現代社会で、葬儀が形骸化し、告別式だけが表面化して執行されるのが一般化したせいのように思えます。
死者を通夜と葬儀を通して成仏させるのが、死者儀礼を執行する本義であるはずです。ところが現代の葬儀は、死者の成仏の儀礼よりも、生者の社会的な関係者に対する告別式になってしまっているところに問題があるといえます。
かつては通夜の席に親族や近所の人たちが集まり、亡くなった方の思い出を語り合いながら、遺族の心の痛手をぬぐってきました。こうした日ごろ親しく交流を持っていた人たちの集まりで、しめやかな雰囲気がかもし出され、知らず知らずのうちにグリーフ・ケア(愛する人を失った心の痛みの治療)が行われていたと思われます。
でも告別式だけが表面に出て、喪主や遺族の社会的な関係者が集まり、儀礼的なお悔やみの言葉をかけられても、遺された者の痛みが癒されるはずがありません。うわべだけのお悔やみの言葉の氾濫にいい加減うんざりした遺族は、直接的に亡き人との交流を通じてのみ、心の傷の癒しをもとめる「千の風になって」の傾向が顕著になったともいえます。
従来でも、亡くなった方の霊はしばらくの間は遺族の許にとどまり、次第に離別の訓練が行われてきた、それがほぼ四十九日の期間であったと考えられます。ところが、最近、主として都会では、骨上げ後に続いて、一七日も、七七日の法要まで行ってしまって、親族もその後訪れることは稀になってしまいました。
このような時代風潮は余り望ましいこととはいえません。お坊さんは葬儀にあたって、まず亡くなった方の成仏を祈り、それを遺族に納得させることに、より重点を置くべきです。それにより遺族の中に生まれている喪失感を癒し、悲しみを抱えながら、そこから新しく生きていく道についてともに語り、遺族自らが悲しみを乗り越えて生きるために手を差し出すことが次に必要となりましょう。
亡霊をはべらせて癒されることを期待することなく、適切なグリーフ・ケアを施すことによって、自らの悲しみを癒すという能動的な方向を遺族自身に見つけ出させる。そういう方向性をお坊さんが示すことが出来れば、千の風の歌を題材にして、死の意味を正面から見据える新しい葬儀の意義が見出されることになるのではないでしょうか。
「千の風になって」の流行に対する意見を、先日、所主筆より求められて、とりあえずしたためました。今年の高野山安居会には、死にどのように立ち向かうかという課題が掲げられているようです。生憎公務の関係で、初日のシンポジウムを傍聴させていただいて、意見を申し上げる機会がないので、蛇足ですが紙上を借りて一言述べさせていただきました。(和歌山県伊都郡高野町)
後半の葬儀の話、、、
@しんえい
坊さんとして頑張っていく所存です!






私も 息子を亡くし 立ち直るのに長い時間がかかりました
しかし 幼い子供ほど 古来の日本の考え方であれば 早く成仏させなくてはいけない
親である私が その魂を離さなければ成仏することができない
成仏できなければ 魂は浮遊しなくてはいけない
しがみついていてはいけない
のですね
中々、分かりやすく、理解できました。
あの歌については、歌詞まで、気にしてなかったな、、、、。いわれれば、なんだか変ですよね。
でも、ほとんどの人は、単に、メロディだけで、楽しんでいるような気はしますよね?
って、俺だけか?
最近、歌も聞いてないな。
バクテリアに分解されて気化して行く
...だけとは思っていませんが
無になるのかなぁ?どんなんかなぁ?
疲れているときや辛い時は
癒して欲しい
けど覆い隠して欲しいわけじゃない
っと僕は思う
っていうか癒しブームなんて
なんて恵まれた国(自分)なんだろう
息子さんを亡くされてたんですか
それは辛かったですね
日本人らしい“健全な”
仏さん(息子さん)との係わりが感じられますよ
あの歌、初めて聴いたときから違和感がありました。
ただ、皆から「いいね〜」「そうだよね〜」と言われ、
@しんえい「そうかな〜」くらいしか言えず、、、
今度、お説教(法話)で話してみよう!っと
難しい質問をしないで下さい!
死んだらどうなるか?なんて
死んだ人じゃなきゃわかりませんよ
「癒し」=人と人がもっと関わる!
って事なのかもしれませんね
楽しみに待ってみますw
「癒し」
日本語のように振舞っているけどw
面白い言葉ですね、辞書には無いし
調べてみよーっと
@しんえいさんは人との関わりの中で
癒しの勘が働くのかな グーっ!
その時の楽しみにw しましょう!
あまり知らなかったのですが
なるほど、そのような二面の捉え方があった
のですね。
なんだかいろいろと考えてしまいました
多分、私が坊さんだから拘るんでしょうね〜
この歌、なんとなく私自身を否定されているような気がしてしまうんです。
母は亡くなる前、この歌をよく口ずさんでいました。
「私は千の風になるのだ」と言っていました。
だからこの歌は亡くなってゆく人が、残された人を思う歌だと自分は捉えていました。
母が亡くなった今この歌を聞く時、“残された自分の周りに、亡くなった方がいつも一緒にいて欲しい”とか“淋しさを癒されたい”などとは思いません。自分を見守り続けてくれているだろう母に感謝する気持ちが溢れてくるだけです。
亡くなった方側からみると、、そうですね。
私は坊さん、
どうしても『成仏とは』と言いたくなってしまうのです。
自分も“成仏して欲しい”と思っています。
「亡くなった人まで利用して」というところに反応してしまいました。
コメントありがとうございます。
また、、、是非、、、反応してくださいね!